人間と馬とのかかわり

 人間と馬とのかかわりは、むらとしての集団牛活が営まれるようになってからすでにかかわり、長い歴史の中で農耕や戦争等、関係が深く結びついていました。
 明治五年三月の記録によると、坂下ではもう三百六十一頭も飼育しており、この頃は農耕用の馬で木曽馬が殆んどでした。
 馬は農家にとってはかかせないものでした。
 それは、単なる農耕に使用するばかりでなく化学肥料のない時代ですから堆肥として肥料をまかない、運搬もし、農家の大きな収入源の一つでありました。
 その頃の馬は、家族の重要な一員であったため馬屋は玄関の横で家の中にあり、家族同様な扱いを受けていました。氷室彦太郎翁(高部)は「夜さり、寝る時に飼い葉をやって、寝床の中で馬の咬む音を聞くと何とも言えんいい音でのう、馬が食うまで待ってねたわいの。」
と話されましたが、この言葉の中にも馬の心と人間の心とがよく通じ合ったようすが感じられます。


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種つけ

 明治から大正の末期までは、木曽馬の二歳馬を馬喰(ばくろう)が福島の市で買ってきたものを売買したり、馬小作として飼育して農耕に使うのが主目的でしたが、大正の終わり頃から牝馬から仔馬をもうけ、それを売って農家の収入源としてやることが普及してきました。
 昭和になり、県から与託馬として種馬が入り益々本格化してきました。
 四月一日から六月初旬の時期(仔馬を出産して田植えに使用出来る時期)(妊娠期間十一ヶ月)で発情がくると、牡馬(種つけ専用馬)を飼育している人(鎌田高助、吉村琴六さん)に頼み種つけを馬場の横、柳渡しのそばでかてて(交尾)もらいました。それは、不景気という嵐が吹き荒れる中で、農家の収入源は馬に頼ることが非常に多くなってきたからです。戦争が始まり、需要が軍用馬=小格輓馬(小さくて頑丈)という方向になるに従い農林省の長野種馬所(長野県北佐久郡三井村)へ毎年九月になると、種馬選びに出向します。二百頭に近い中から、種馬を選ぶには非常に難しいことでした。体形、実績から選考していくと、どこの地域からも同じ馬に集中し、自分達の町村へ入れるには、あの手、この手を使っても自由にならず、火花を散らす奪い込み作戦を展開したそうです。
 翌年の三月下旬、種馬二頭から三頭、派遣牧夫と共に着任しました。この時のようすを楯安治さん(新田)は、
 「山口は、早くからの実績があり、なかなか良馬を入れておったが、坂下では、なかなか苦労したわいの。一度は所長と、華々しいのをやり合ったぜ。宿屋接待のだっ込みもやったが、思うようにはいかなかったのう。話は違うが、酒のない時で、みんなで手分けしてリックにどぶろくを入れて持って行きようたら、汽車の中で発酵をして瓶の栓が向こうでもポン、こっちでもポン、リックの中は白くなっちゃって閉口したわいの。」
 魚をとる投網を編みながら、笑いの中にも、当時の厳しさをありありと語られました。


馬場作り

 馬の種つけ場や、馬市場の候補地として現在の馬場を選定しました。一部私有地もありましたが買い受け工事に着工しましたが、まるで川原で石がごろごろとしており、これではとてもかなわんという事で、産馬組合員総出で整地をして、だんだんと整えていき、一部補助もあり、馬検場、種付け場、派遣牧夫宿舎、馬舎などが建築され、本格的になったのは、昭和五、六年の頃です。少しおくれて馬の怪我などを防ぐために、馬屋を作ることになりました。個々の負担で自分達が出て瓦ぶきの長屋を一戸当り約十五円で道路側と川原側に作り上げました。
 こうして馬場は真に馬の運動場であり、馬の検査場でもあり、馬気違(うまきち)連中が集まって語り合い、一杯飲む場にもなりました。


馬市

 大正の終わり頃から三、四年小学校の校庭で市が開かれました。そして、上鐘へ移り二、三年開かれたが、本格的には馬場からです。
 毎年品評会が、九月一、二日にあり、せり市が四、五日にありました。その翌日は山口で開かれました。
 手塩をかけて育てた仔馬、我が家を出る時家中総出で、仔馬に名残りを惜しんで送りました。そして高値で売れるように……。
 各人が自分の持ち馬屋に親子の馬を入れ、飼い葉を食べさせていると、仔馬につけてある番号を見ながら、馬喰(ばくろう)は鋭い視線を注ぎメモしていきます。それは自分の買うのを選ぶためです。
 当時の馬市は、なかなか盛んなもので、高部の婦人会がバザーを開き、酒もおでんも売ってあり、強い日射しの中で一杯ぐっとひっかける姿がちらほらあり、まさに坂下中の祭り風景を呈しました。
 馬市の全盛期は、昭和十年頃から十七、八年頃までの戦争の激しい時で、川上、坂下の仔馬は全部で百五、六十頭にもなり、そのほとんどが、市に出されました。
 いよいよせり(市)です。馬喰、役員は清めの酒をいただき拍子木と共に始まり ます。その時の様子を西尾源三郎さん(相沢)は、私の馬も確か昭和三年頃だったと思うが、郡の優良馬に選ばれ八十円で売れたことを懐かしく思い出され、せり市の名人と言われた鎌田高助さん(失渕)について、
 「高助さは、せり市が本当にうまかったのう。さあ、三十五番鹿毛(かげ)の牝、これはいい馬だぞ。そういいながらぐるぐると会場を廻る馬をみつめながら、三十円からいくぞ。どうや、三十五円、四十円、四十二円、もうないか。うん、四十三円、四十五円、五十円。もうないか、どうや。五十五両。よしないか、くれてやる。そうするとのう、係の人が十五番さんお買い上げといって柏子木をチョンチョンと打ち、そりゃあ声もいい。間のおき方といい、買い手の心をよくつかんで、うまいもんやったのう。」
 「せりがとても上手やという評判になってのう、中津、山口、木曽の本場福島の市と方々頼まれていかしたぜ。そうやってラジオの放送までされたしのう。本当に上手なもんやった。」
そう言いながら、坂下には三助と呼ぶ馬気違・矢渕の鎌田高助、吉村佐助、高部の永室伍助さんは、真から馬を愛されたと付け加えられました。


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馬との別れ

 はなばなしい祭りの中に、売った買ったことによって、手塩にかけて育てた仔馬との別れです。予め手配されていた貨車が坂下駅に待っています。やわらかい飼い葉や人参を食わせ、
 「しっかりやれよ。」
 「うちの人の言う事をよく聞けよ。」
 「よう働けよなあ。」
胸や顔をさすりながら、思い思いのことを言ったり、ことばにはならないが飼い主ならではの複雑な思いが込み上げてくるのです。
 親馬と一緒に貨車まで引いていき、男達の手によって一気に仔馬を貨車へ入れ、親馬を素早く引いて後髪を引かれる思いでだんだん遠ざかると、「ヒヒーン。」「ヒーヒーヒーン。」別れの悲しい声が、耳の中へつんざくように聞こえてきます。
 近在に売られる場合は、辻で別れさせたり家の近くで別れさせたりしました。仔馬のあらびながら叫ぶ声が何時までも耳の奥へ泌み込み、馬の親子の別れのつらさが、飼い主へ愁しい愛情として伝えられ、ここでも人間と馬とのつながりを感じさせられます。


三大馬市

 岐阜県では、馬市が各地で開かれましたが、その中で放牧や草に恵まれている飛騨の久々野、郡上の奥明方は昔から有名でした。
 坂下では、急激に盛んになりました。それは馬に熱心な人が多くいた事と、昔から木曽馬を多く飼育していた事が挙げられるようです。こうして、昭和十五年頃から軍用馬飼育の候補地とも含め三大馬市の一つに数えられるようになりました。
 昭和十六年四月、戦争、まさにたけなわになろうとしている時、興亜馬車大会が東京代々木練兵場で、世紀の馬車大集会として天皇陛下御臨席のもと繰り広げられました。その時に、双葉山号という丸十商店飼育の馬が県代表として出品され、馬事功労者も含め次の方々が上京されました。

加藤才次郎(町長)西尾源三郎(馬事係)
松井鹿之助糸魚川太郎一
氷室彦太郎林秀子
古谷芳六



衰退

 終戦という思いもよらない運命にあい、軍用馬としての役目がなくなると、肉としての価値しか残りません。馬肉はさくらといって牛肉の半分も三分の一もの金にしかなりません。
 又、平和産業の切り換えによって農業機械が生産されるようになり、耕運機やトラクターの出現によって、馬の用はもはやなくなってしまいました。
 そこで、肉として収入の多い牛にどんどんと変わり名残りをおしみながら馬を捨てるより仕方がなくなり、長らく続いた馬市は、昭和二十五年をもって幕を閉じてしまいました。

※ 現在(昭和五十九年)馬の頭数が少なくなり、馬肉の値は高価になっています。



参考文献と話を開いた人
楯 安治(新田)
西尾源三郎(相沢)
氷室彦大郎(高部)
西尾 義人(本郷)