渡し舟と弥栄橋


渡し舟


▲渡し舟(大正丸)

 木曽川は昔は筏(いかだ)を組んで竹棹(たけざお)でこいで往来していましたが、だんだんと街道が整い、往来がはげしく荷物が多くなるにつれて、少しずつ筏が改良されるようになり、江戸時代には舟で往来するようになりました。
 明治になってから舟は幾度も改良され、特に日清戦争が始まる少し前、明治二十五年に中山道の改良道つまり山口新道が出来てから日本海の海産物や米、雑貨等が木曽谷から飯田伊那へ送られるようになると、舟が大型化してきて、馬車ぐるみ入ってそれに人間が十人位乗れる大型のものも出来てきました。
 大正の終わりの頃に使われた大正丸は、岡田式滑車といって長さ十五米巾三米、ワイヤーに舟から一米位の位置に滑車をとりつけ、水の流れを利用して対岸へ進む、当時としてはすばらしく工夫されたものでした。
 筏場の家号があるように、海産物、雑貨等の中継問屋があり荷揚車が往来してなかなか附近は賑わしくなりました。
 明治や大正時代に生まれた人は、大正丸に乗られた経験がおありかと思いますが、舟賃は人は二銭、自転車は五銭、馬車は十銭でした。でも山口の人だけは無料でした。それは経営が村営であったためです。原吉六翁(新田)の話によると、一時坂下と共同の時もあったが、すぐに山口村だけになりました。そのわけは山口の人は医者、駅、店、総てに坂下へ来ないと用がたせなかったのです。それで村営であり最後の船頭さんは可知利肋(後にブラジル移民)というとても気のいい人で、一人でも気楽に乗せてくれました。
 大水と夜間は渡舟はなく、何人かの病になった人の命が救えなかったと聞くし、桑を一杯脊負って渡し場まで来たら、大水で渡舟出来ず、家が目の前にありながら中津川の玉蔵橋を通り、握を経てようやく我が家についたと原吉六翁(新田)は話されました。
 春の四月三日は栗島(あわしま)神社の祭典です。女の人がお参りすると安産するとかという事で、昔は大変賑わい遠くの村々からもお参りがあり、娘さん達の行列が出来て乗船している姿は色とりどりの絵模様が写し出され春の景色があでやかでありました。
 昭和の声を聞くと物資輸送を始め往来が激しくなり、渡し舟のみの交通機関ではどうしようもない様相が続き、坂下、山口のみならず架橋の声が高まり、遂にのどかなしかも長い歴史をぬりかえた渡し舟は惜しまれながら姿を消すことになりました。


弥栄橋


▲弥栄橋渡り始めのにぎやかな風景 →拡大

 弥栄橋は文豪島崎藤村先生が名付親で、自筆で坂下側に「いやさかばし」山口側に「弥栄橋」と銅板に堀られ昭和七年五月八日完成しましたが、第二次世界大戦に銅板と手擢(てすり)は供出してしまいました。
 橋は最初は坂下製材の裏あたりが選ばれましたが、川巾の一番狭い所ということで現在の場所が決定しました。
 当時は、この附近は家がまばらにあるだけで、草深い川岸と道もない畑ばかりでした。 工法は潜凾法(橋の基礎工事をするために地下に作業室を作る方法)が取り入れられて、缶南組が請負いました。最初に橋台の工事が始まり、中流の橋脚二基は先ず川の中に蛇籠(竹でかごのようにあんだ入れ物)を沈め土砂を運んで中島(川の中の島)を造り、川岸に高い鉄の櫓(やぐら)を組んでコンクリートを樋で流し、中島に随円形の巨大な円筒を作りました。中から土砂を堀り出し、湧水はポンプで揚げて、だんだんと川底へ沈下させていきます。八分通り沈むと中をコンクリートで埋めました。今の橋脚の下部の太い水に洗われている部分がその頂端であります。その上に橋脚を建てる工法でした。
 昭和六年の夏に二回の洪水で被害を受けながらも、秋にはこれを完成し、翌七年の一、二月の寒風をついて朝の五時には仕事始め夜の十一時頃までの突貫工事が進められ、けたたましいコンプレッサーの鋲打の音が響き渡り、鉄橋はみるみる組み立てられていったと、後藤慎一翁(山口村)の話でした。
 丁度、この頃は不景気のどん底で、失業対策も兼ねて、一日四十銭から五十銭で橋からの県道が駅まで大沼町を通って作られたと、原新助翁(相沢)が言われました。そして、待ちに待った落成の日、不景気の折でもあったために、祝宴は賎母公園の野天で机を並べただけの質素なものでした。特に印象に残るのは、無医村で川止めにあった苦しさを涙声で淡々と述べられた山口村の稲葉村長さんの祝詞です。それが一番胸の奥底につかえ、すすり泣きさえ聞こえたことを今でも忘れることが出来ないと原吉六翁(新田)は言われました。
 それにしても待ちに待った落成日です。見物人があちらからもこちらからも黒山のように押し寄せ、紙吹雪が舞い、花火も上がり売店まで出る大盛況でした。
 渡り初めの先導は、坂下側は原吉六翁宅、山口村は宮下十平氏宅の三夫婦出揃いでした。
 こうして、弥栄橋は今日まで大切な交通機関の役割りを果してきて、町や村を大きく発展させました。




参考文献と話を開いた人
坂下町史
坂下新聞
原 吉六(新川)
伊藤 隆子(新町)
原 新助(相沢)
後藤 慎一(山口村)
西尾 百恵(本郷)