うわ い よう すい
上井用水


 取入れ口を島井田からもとめて、大門、時鐘を横切り、愛宕(あいたご)山をまわり、女子高校の上から松源地へ抜け、東町、中之垣戸までの用水を上井用水と言います。
 この用水には、小さな排水口が四十ヶ所余、大きな排水口が七ヶ所あり、利用面積五十ヘクタール、利用戸数五百戸に及びます。
 昭和四十七年頃、四千万円かけて補修され、利用自治会も大変多く、本町、新町、宮前、島平一、松源地、東町、中之垣戸、新田、伝馬町、旭町、大沼町、時鐘の十三部落となっており、昭和四十二年から坂下町上井用水土地改良組合(組合員四百五十四名)が発足し、毎月利用度によって費用を徴集し運営されております。
 この用水が出来るまでには、江戸時代二人の献身的な努力が捧げられ、その結晶として完成したと言われています。
 その一人が朝倉様で、現在、中之垣戸に神明として祀られ、毎年一月十五日に片辺(原辰男氏)で供養されています。
 この人こそ、私達の町に貢献した用水の守り神として忘れることのできない人です。
 もう一人は、朝倉様の後を継いで、見事に完成した水口源左衛門様です。
 女子高校の用水の側に、上井用水開穿之祖として、昭和四十四年四月三日に、源左衛門様の子孫である亀山元吉氏が、を建立されました。
 この御両人の碑は、共に水に関係が深い場所に建てられております。
 朝倉家は絶えてしまいましたが、水口家(亀山)は現在もあり、昔は土地が多くあった資産家だと言われています。
 戦前までは井下(ゆした・用水組合員)三十六軒で運営され、朝倉、水口両人を祀る祭りは、井下の者(松源地、東町、中之垣戸)で毎年四月十五日頃に行なわれていましたが、用水土地改良組合が発足してからはなくなってしまいました。
 この用水の完成までには涙ぐましい伝えばなしがあります。


朝倉明神▲
 江戸の中期(宝暦、明和の頃?)に、坂下村の発展は、川上川より用水を引いて原野を開拓することであると、朝倉様は考えついたのです。
 そこで、苗木藩主へ工事の許可申請を出したのであります。調査の結果、工費(言い伝えによると三百七十両)と工事が許可になりました。
 いよいよ、測量を開始しました。当時、測量器は竹をわったのに水を入れて水平にして測ったり、夜、松明(たいまつ)の明りで高低をみたりしたのです。なるべく高い所へ用水路を引いていけば、開拓がたくさん出来ると考えました。
 その難しい測量も終わり工事に着手したのですが、岩石にぶつかったり、大木を倒したりで困難に困難を極めました。
 一番の難所は、何と言っても愛宕山で、堀りわるか、迂回するか、どちらを選ぶかがまた難問だったのです。迂回すると用水路が長くなり、落差が多くなる。堀りわることは、当時の技術としてはとても難かしかったわけです。いろいると考えたあげく用水路を高い場所へ持っていきたいことで、遂に堀りわりに踏みきりました。
 土質は硬く、また各所で湿地帯にぶつかり、工事は、予想をはるかに越えて次から次へと困難を重ねながら愛宕山の堀りわりへと進みました。しかし、仕事は急速に衰えてしまいました。それは、あまりの難工事で工具が用をなさない有様となってしまったのです。
 それに費用もかさんできている折、もう一つ悪い事が起きてしまいました。
それは測量の誤りがわかったのです。つまり、取入れ口より反対側が高くなってしまっていました。もう工事の失敗は明らかで、村人は力を貸さなくなってしまいました。そこで、とうとう朝倉様は、身の振り方を藩主へ願い出ることにしました。ところが藩主からは何と厳しい切腹の命令が出されてしまったというのです。こうして朝倉様は、用水の完成を見ずして、荒野の露と消え去ってしまいました。
 村人の望みであった用水は、未完成のまま何時しか知らぬうちに二十数年たちました。


▲水口源左衛門の碑
 その後、ようやく朝倉様の意志を継いで、水口源左衛門様は町平(当時は原野)の発展にはどうしても用水路を引くことであると、自費で工事許可を藩主へ願い出ました。藩主からの許可条件は、
 「もしも工事を失敗しようものならば、朝倉同然切腹を申しつける。」
という厳しいものでした。
 源左衛門様は、朝倉様の失敗を繰返すまいと、用水路を下げ、工事の一番難所であった愛宕山堀割りはやめて、無難な方法を選び愛宕山を迂回する方法を選びました。
 工事は、日に日に進み遂に完成しました。村人は、「水が来るぞ。水が来たぞ。」と喜びあいました。
 それから数年の後、坂下村は見違えるように田畑が切り開かれうるおうようになりました。
 源左衛門様は、用水完成後、後々の修理費のことも考えて、井下の持ち山二ケ所に木を植えさせて今日に至っております。




参考文献と話を開いた人
付知町史
坂下町史
原 吉六(新田)
原 新助(相沢)
吉村 房夫(大門)
吉村 敏郎(松源地)
原 義一(中之垣戸)
西尾 一郎(松源地)
亀山元吉(松源地)
坂下町役場