よつばり けん ぎょう
四ッ針検校(中原)



四ッ針検校の墓▲
 長坂の塞ノ神峠に墓地があり、今では、車道から五十メートルほど入らなければならないが、昔の木曽古道のほとりになります。
 その墓地の一角に、栗の大木があり、藤蔓が幾重にも巻きついて、足の踏み場もないありさまですが、その下に、一メートルほどの墓石がぽつんと寂しく建立されています。墓石には、何も印されていないが、土地の人達は小便神様とか、四ッ針様とか言っております。
 今でも、時たまお参りがあるのか、小さな幟りが奉納されております。
 検校とは、盲人(按摩)に与えられた最上級の位で江戸時代には試験を受けて合格した者が、金千両の大金を納めて、位を受けることになっていたのです。
 四ッ針様とは、金銀銅鉄の四本の針を用いて鍼(はり)の治療をするのです。
 その事から、四ッ針検校と名付けられたというわけですが、さて、ここの四ッ針検校にはこんな伝えばなしがあります。

 昔、都で鍼医をしていた検校様が、何かの争いのもつれから、都に居辛くなって余世を木曽で暮らそうとして、一人旅を続けて来られたのです。そして、この長坂にさしかかられた頃には、長い長い旅の疲れで、体がへとへとになっておいででした。
 「一寸、あの向うから吹いて来る川風の匂いからすると、木曽はすぐそこのような気がするがどうですやろう。」
と、杖をさして、検校様は仕事に行く村人に尋ねました。
 「へえ。そうやぜも、ここからくだって一里位行けば木曽へ入るぜも。」
そう教わると、安心されたのか検校様は路傍の切り株に腰を下して休まれてしまいました。あと少しで、木曽へ入れると思われたのでしょう。うとうとと寝りにつかれてしまったのです。
 やがて一、二時間のねむりから覚めて起き上られましたが、急にふらふらとされたかと思うと、再びその場に、ばったりと倒れてしまわれました。
 山仕事帰りの村人が通りかかると、道端に老人が横たわっているではありませんか。
 「これは、どうしたものか、かわいそうに。」
 「かわいそうや。旅のお方に違いない。もう死んでいるのう。」
口々にそういって、葬むろうとして見ると、脊中に包みをつけているのです。中を開けると、竹筒から金銀銅鉄の針が四本出てきました。
 「こりゃあ、按摩さんや。」
 「四ッ針を持ってみえるぞ、こりゃえらい位の高い人やぞ。」
 「そうや、そうや。大事に葬むってやろう。」
ということになり、小さいながら墓を作ってやりました。
 昔は、寝小便をすることを”四つばり“と言っていたので、何時しか知らぬうちに四つ針様を間違えて、小便神様にしてしまいました。
 でも、名高い検校様は、寝小便する子を本当によく治してくださいました。
 お参りする時には、「幟りを二十本とか、五十本とかすきな数を立てるで、治してください。」と、お願いするのです。
 お礼参りには、名前を書いては恥かしいので、生まれた時の干支(辰年の男とか、未年の女とか)を書いて墓のまわりに立てるのです。
 織りは、高さ二十センチほどの小さなもので、男の子の場合は白地で、女の子の場合は、赤地に書いて立てるのです。




参考文献と話を開いた人
原 恭夫(中外)
吉村 昭春(樺ノ木)
林 辰彦(樺ノ木)