のう が いけ
濃が池(中原)



中原にある濃が池▲
 中原の養鶏場から農道を南へ行った所、つまり戦争中の監視所のあった近くに濃が池があります。
 池といっても窪んだ湿地で、何百年、何千年も草が生えては枯れては生えて、三メートルも四メートルも積り重なっていると言われています。
 これはおそらく、古代の噴火口であったのではないかと思われます。今では、県の遺蹟の指定にもなっております。
 植物も多く生えており、おにすすき、ちがや、ますぐさ、それに、しょうべんぎ、また濃が池にしかないと言われている珍らしい、はなわらびなどが生い茂っています。
 今、五十代以上になっている人達の子ども時代には、大雨の後は三日位水がたまっており近くから木を運んできて、筏を組んで乗りまわしたという、冒険談も聞きました。
 濃が池は、山口村にもあり、現在は木曽川の一角になっているが、昔は川より随分はなれており、村人達は別名、青木の瀬ともいっておりました。
 「濃」とは、架空の動物で馬鹿でっかい怪物で、濃が池の伝えばなしは、子ども向けの“美濃と飛騨の昔話”の本の中にこんなふうに書かれています。『毎日のように大雨が降り続いた。その時、村へ濃が出現して水を飲み、娘を授けないと退散せず、暴れまわった。村人は、毎年のように娘を濃に授け続けたので、とうとう娘が一人になってしまった。その一人の娘を授けると濃は娘が気に入り暴れないようになった。』と、書かれています。また地元の古老の話を総合すると次のようになります。

 どういう事か、数年日照りが続き、とくにその年は大旱魃(だいかんばつ)に見舞われ、坂下や山口村では日照りがきびしく昔から山から湧き出る清水もちょろちょろになってしまいました。握の人達は、「えらいこっちゃぜ、何か良い方法はないかのう。」
 「あん、高峰より水は引っぱってこれんしのう。」
 「田植えがおくれてしまうし、えらいこっちゃのう。」
などと、言い合っていました。一万、山口村では、
 「わいら、何か良い事考えとるかい?」
 「あん、神坂の、湯舟沢へ雨乞いに行ったらどうずら?」
 「そりゃ、良い事ずら。」
などの話が出て、湯舟沢へ雨乞いに行く一連隊ができました。
 乙姫岩より上方の雨乞岩で、握の人も、山口の人も、西方寺、高部の人も大勢出て、雨乞いを盛大に展開し始めました。
 どれ程の時間がたったでしょうか、俄かに黒雲が出てきたと思うと、どえらい大きなカミナリか何回も鳴り響きました。まるでオーロラをまのあたりに見るような情景でした。しばらくすると、黒雲をかきわけて濃が天からおりてきました。なにしろ大怪物のことです。左足を山口村に、右足を中原へドスーンとおろし、口を舟渡し場(弥栄橋上)付近につっこんで細くなった木曽川の水をたちまちのうちに飲みほしてしまいました。
 驚いたのは人間ばかりでなく、川下の魚もアップ、アップし出してしまいました。
 濃の襲来に驚いた村人達は、その場に立ちふさがり、ガタガタ震える者、気絶する者、神に祈りを捧げる者、ただただ右往左往するばかりでした。それを見た濃は、
 「いいきびゅうや、いいきびゅう(黍生)や。」と、言い残して昇天しました。
 それから二、三日後、どうしたことか、不思議にも下界の農民の苦しみが濃にわかったのか、神様と濃の力で、この坂下村にも恵みの雨が降り出しました。待ちに待った村人は 一斉に田植えを始めました。
 濃の足跡には、雨水が溜り、いつの頃からか、濃が池と呼ぶようになりました。




参考文献と話を開いた人
美濃と飛騨のむかし話…岐阜県小中学校長会編
田口 千秋(上外)
今枝 文吉(矢渕)
原 寛(相沢)
林 彦太郎(握)
原 吉六(新田)