ふる あん
古庵(中之垣戸)



古庵開僧の墓▲
 明治の前、中之垣戸の一帯を和合と呼んでいました。
 和合の中に、寺山という小字があります。(家号古庵附近)その寺山の一角にとっても小さな草茸の家がありました。それが古庵であります。
 古庵は、とても古くからあり、江戸時代にもう開かれておりました。中之垣戸公会堂の前にこんもりと盛り土をした上に墓標か東向きに建立されておりますが、それは、慶安二年八月六日(一六四九)、園明庵主と記されており古庵開僧の墓であるといい、これからみてもたいへん古い庵であります。
 天保年間(一八三〇頃)になると、坂下にも寺小屋が始まりました。古庵には、牧野景山、渡辺良明、三井寺には坂岡左京、上野では西尾権作、西尾治郎作が師匠として学問の道を教えるようになりました。
 明治三年廃仏毀釈によってこの小さな庵もとりつぶされ、最後の住職は尼さんでしたが身を寄せるところがなく、長昌寺住職広田文五郎氏(現在中津川市)の世話になり一生を終えられました。
 今、古庵の近くには、念三夜塔、庚申像、三申像があります。この三つの石像の前後には三つずつ穴が堀ってありますが、これは、柱を建てた跡で昔は屋根がしてあり、なかなかの賑わいがありました。
 お祭りは、今も旧の三月二十三日に中之垣戸平と新田平、それに東町の一部が加わって催されています。
 道をへだてた反対側には妙覚堂があり、そこには鬼子母神が祀りこまれておりましたが、廃仏毀釈によって広田観音堂(新町河十前)に移されております。
 古庵の尼さんのいた頃は、家は点々とあるだけで、榧(かや)の木の大木が生い茂り、そのまわりには、まな竹が一面に生えており、南側の斜面には黒々とした笹がよく育ち、馬の飼い葉や堆肥にする芝刈りに朝露を踏みながら農夫は毎日のように出掛けていきました。
 寂しい寂しいこの一帯には、貂(てん)や狸などかよく出てきて、野鼠や小鳥を餌にして暮らしており、獣のよい住み家でもありました。
 古庵の境内の名物と言えば、とてつもない、でっかい渋柿の大木がありました。枝を四方へ遠慮なくさし出し、子ども達の格好のよい遊び場で、この木によじ登り放水試験をすると、ものの見事に霧になって飛び散ったとか。
 柿の実をもいで食うと、顔が歪むくらい渋い楕円形のおぞい柿でした。
 もともと古庵は、今でいえば集会所のような役目をする場所でもあり、婆さん連中が集まって念仏講を唱え、あとは例によって人の噂話しに花を咲かせたり、一杯飲んで重箱をたたいて歌ったり踊ったりの大騒ぎ。つまり、信仰、娯楽、相談の場でもありました。
 古庵の庚申像は、正徳五年(一七一五)に建立されたもので、疣を治すことが大変に上手で、まわりにある小石をお供えしておがみ、治ったら自分の願をかけたり、川原から小石を捨って治めればよいのです。
 ずいぶん遠くからも、願をかけによくこられたそうです。




参考文献と話を開いた人
坂下町史
西尾太郎一(中之垣戸)
加藤与志ゑ(中之垣戸)
西尾 ふさ(相沢)
原 新助(相沢)
松井鬼四郎(宮前)
川原 金一(高部)