もと う え もん そう どう
元右衛門騒動(本郷)


 上野の本郷の墓地の北東よりの山の中に、両手を合わせた小さい石碑が、立ち枯れの木の側に建っています。この碑が、元右衛門騒動に関係のある文右衛門という人の墓だと伝えられております。
 元右衛門騒動とは、いったいどういうものでしょうか。
 元文五年(一七四〇)苗木藩第七代遠山友央は、分地五百石を幕府へ上地しました。それで第八代遠山友明は、下野村を上地し、残地を上野村に編入させました。
 その下野村の残地(田代、武士、島、森下、神田、木ノ下など十八軒東組)が、上野村の庄屋、西尾氏の手によって苗木藩に属しておりました。
 この頃は、庄屋の下に五人組の組織がおかれており、文右衛門は本郷の代表者であり、元石衛門は下野残地の代表者、今でいう自治会長であったわけです。
 事件は、寛政五年(一七九三)のことです。あまりにもひどい年貢に、これでは本郷も下野残地の人々も生きていく事が出来ないとして、年貢の値下げを藩主へ願い出たわけです。しかし、それが謀反(むほん)だと、願いは却下されたわけです。
 それで、元右衛門は田代で打ち首にされました。その事が本郷へも伝わってきて、文右衛門は責任をとって自害しました。これが俗に言っている元石衛門騒動です。
 現在、祭りは田代の一部で三月十日に営まれ、元右衛門氏の子孫は福岡の長瀬訓平氏だそうです。
 この騒動には、こんな伝えばなしがあります。


 当時の本郷はまだ開けておらず、真菰(まこも)一帯は木と草がおい茂り、附近はわずかな溜池と清水を利用した農耕を営んでおりました。家もまばらで、中西、西、堀の内、平、田畑、それに南側には数軒あるのみのさびしい地区でした。
 事件のあった五人組の組頭は、平の先代の文右衛門という人で、西からお嫁さんをもらっていたということです。
 もともと、上野の本郷も下野残地も、寺尾洞と比較すると日向きも悪く、水も冷めたいため米の取れ高はよくありませんでした。それに、毎年のような年貢の高騰に“上野のひえこがし”とまで俗名をもらっている百姓は、働けど働けど苦しい連続でした。
 秋も終わり、やがて厳しい冬が近づいてきました。庄屋西尾氏は藩からの命令で年貢の割り当てを申しつけました。
予想をしていた百姓も、あまりにも高い年貢に驚き、夜、ひそかに開いた集会も愚痴ばかりが出されました。
 「俺ら、残されたこんだけの米で、かかあもびいも、ぼうも、それにばぱあも食わせていかならん。どうすりゃいいら。」
 「これじゃ、水だけで生きれというのか。」
 「平の五輪様の御利益もなかったのぅ。」
 ついには、神様、仏様の助けも駄目だと嘆げいてしまうありさまでした。
 いっぽう下野残地は、上野と比較すると高いし、それに山境も不正だと愚痴が出ておりました。
 そこで、藩の碇てにそむくことではあるが、元右衛門と文右衛門三人は藩へ申し出をしました。藩では瀬戸の庄屋に命じて調査をさせました。調べた結果は不正であることを認めたが、上野の庄屋と親類関係にあたるので、不正でないと報告しました。その結果、謀反だとして打ち首を命ぜられました。
 そのことが、残地の人々から天領下野村へ伝わり、法界寺の運外和尚さんが命乞いを苗木藩へ申し出ました。幸いその許可かおりたので、和尚さんは、衣を腰までめくり上げ、歳老いているので、よぼよぼしながら大声を出して田代へ駈けつけましたが、すでに元右衛門は打ち首にされておりました。
 本郷の文右衛門にも打ち首が伝わっていたので、彼は西へ行って、
 「よろしく、妻と子どもを頼む。あとの事は心配してくれるな。」
そう言って、平へいそいで帰り、身のまわりを整理し、五辻(いつつじ)の近くへ行って自害をしてしまいました。
 時に、寛政五年十一月九日でした。


元右衛門の墓(福岡町下野)▲





参考文献と話を開いた人
鷹の湯……坂中文芸部
古田 しず(本郷)
山内 総爾(小野沢)
法界寺住職(下野)
鎌田 惺和(下野)